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要旨:19世紀末から20世紀30年代上半期にかけては、日本近代詩の黄金時代ということができる。日本の詩人達は『新体詩抄』、『於面影』などが訳詩集の中から精髄を吸収し、日本式の浪漫主義と象徴主義などの流派を創造した。浪漫主義と象徴主義の詩歌は日本の近代詩壇を支える二つの柱となり、西方詩歌はこの柱の原形といえよう。それだけでなく、日本詩壇で生んだそれぞれの詩歌流派は、ほとんど外国詩歌(特に欧米詩歌)の影響を受けて、自我の創造に努める結果に違いない。
キーワード:訳詩集 日本 近代
日本近代詩の歴史は、和歌、俳諧、漢詩など旧来の伝統的詩形に替わるものとして、西洋ポエトリーの移入によって始まったと、一応いうことができる。近代詩とは、普通、日本明治維新以後から生んだ新体詩を指す。開放政策の推進に従い、欧米の文化は春風のように次から次へとこの島国に吹きこんでいた。詩歌界においても、文人達はもう固有の古典詩歌に満足せず、彼らの解放された思想の感情を表現しようと、切実に一種の新しい詩歌形式が必要となった。
1 初期の訳詩集とその影響
1.1『新体詩抄』とその意義
明治十五年八月、東京大学の外山正一、矢田部良吉、井上哲次郎共編『新体詩抄初編』が刊行された。訳詩十四編、創作詩五編からなるが、井上が書中で「夫レ明治ノ歌ハ、明治ノ歌ナルベシ、古歌ナルベカラズ、日本ノ詩ハ日本ノ詩ナルベシ、漢詩ナルベカラズ、是レ新体ノ詩ノ作ル所以ナリ」と言うように、これまでの和歌でも漢詩でもないところで、明治の新体の詩が新しく求められようとしていたのである。
『ブルウムフュールド氏兵士帰郷の詩』(正一)、『カムプベル氏英国海軍の詩』(良吉)、『テニソン氏軽騎隊進撃の詩』(正一)と冒頭まず陸海軍にかかわる詩が三篇並ぶのは、この年一月四日発布された「陸海軍軍人に賜はりたる勅論」と無関係ではあるまい。『新体詩抄』においても最も精力的だった外山はローマ字会、演劇絵画をはじめ、社会·教育·政治と幅広い啓蒙活動を示し、矢田部もまたその中で挫折して行くのであるが、『新体詩抄』はそのような啓蒙思想の一環であり、詩と思想·政治が緊密に結びついていた。
外山の『社會学の原理に題す』が示しているように、ダーウィンの進化論を社会に適用したスペンサーの社会進化論が優勝劣敗の理論として天賦人権論への批判としてはたらしており、詩それ自体の完成度よりも詩の直接的有効性が目指されていたのである。
年季も入らず学問も するに及ばぬ訳なれば新聞記者や役人と 成るは最と最と易けれどか様な者が多ければ 忽ち国に社会党尚ほ恐ろしき虚無党の 起るは鏡見る如し揉みに揉めたる其上句 虻蜂取らずの丸潰れ秩序も建たず自由なく 泥海にこそなるべけれ再び浪風静まりて 太平海と成る迄は百年足らず掛らんは 革命以後の仏蘭西の有様見ても知れたこと そこに心がつきたらば妄に手出しする勿れ 妄にしやべること勿れ
これが詩を借りた説教であることは疑いないが、外山にとっては全国的に激化する民権運動を前に真実それが国の危機と映っていたのであり、『於面影』以降の近代詩の喪失したものがここにあることが確かである。『新体詩抄』には『グレー氏墳上感懐の詩』のごとき、芸術性にとんだ訳詩もあるが、「我は官軍我敵は 天地容れざる朝敵ぞ」で始まる『抜刀隊』が軍歌の先駆として生きのびていくのである。
1.2『於面影』の実験
森鴎外の啓蒙活動は、まず詩歌のジャンルから着手された。その結実が、明治23年8月『国民之友』夏期付録として発表された訳詩『於面影』である。鴎外のほか妹の小金井喜美子、落合直文、市村さんじろう、井上通泰の四人が参加してS.S.S.「新声社」を称し、ドイツ詩·英詩·明詩、それに平家物語まで加えて一七篇(のち、二篇を追加)を素材に取り上げ、形式内容の両面から新時代の詩歌を意欲的に追及している。
思郷
離郷遠寓椰樹国 独有潮声似窮北
思郷念或熾 即走海之浜
聴此熟耳響 鬱懐得少伸
オフエリヤの歌
いづれを君が恋人と
わきて知るべきすべやある
貝の冠とつく杖と
はける靴とぞしるしなる
かれは死にけり我ひめよ
渠はよみぢへ立ちにけり
かしらの方の苔を見よ
あしの方には石たてり
柩をおほふきぬの色は
高ねの雪と見まがひぬ
涙やどせる花の環は
ぬれたるままに葬りぬ
引例に見られる漢詩、新体詩の多様なスタイルのほかに短歌のかたちもあり、またそれぞれの詩篇ごとに、訳出のねらいは「意」「句」「韻」「調」のうちのどれであるかが意識されていた。「意」は「従原作之意義者」、「句」は「従原作之意義及字句者」、「韻」は「従原作之意義及韻法者」、「調」は「従原作之意義字句及平仄韻法者」である。
たとえば『オフエリアの歌』は、『ハムレット』の一節の「韻」訳で、原典の正確な訳出とともに押韻の配慮「脚韻及び第二連頭韻」が注目され、また『マンフレツト一節』はバイロンの「句」訳で、近代人の憂悶に閉ざされた魂の内面がはじめて日本語によって描き出されたものとして評価される。そのほかの詩篇も併せて、様々な実験を背後から支えるみずみずしいロマンチシズムの息吹きは、『新体詩抄』の次元を遥かに超える近代詩の新生面を開いたものとして、若い読者の胸を大きく揺さぶらずにはいなかったのである。その後、『楚囚之歌』『蓬莱曲』と『新体梅花詩集』、『於面影』と同じ年の四月に、浪漫主義文学史のうえで見落とせない作品が表されていた。 2浪漫主義詩歌の開花
2.1与謝野鉄幹と新詩社『明星』
日清戦争の直前、落合直文の「あさか社」が設立され、ここに結集した新派歌人によって短歌の革新が推進された。その活動の中心人物が与謝野鉄幹である。幼少のころから万葉集に親しんでいた鉄幹は、勅撰集の類を吟味した末、二十年代の半ばには一時、新古今調に傾倒していた。しかし二十七年の歌論『亡国の音』では「女性的和歌」ならびに「恋歌」の排撃に転じ、
韓にして如何でか死なむ。面白き、/十年の後の、いくさをも見ず。
などを掲げ「をのこの歌」の具現につとめるに至った。その詩歌集『東西南北』に次ぐ『天地玄黄』には
いにしてへに、神と恋せし、わたつみの、/涙やあかき、珠となりけむ。
と珊瑚を歌った新奇な作も入集された。同三十年一月、鉄幹の主唱により落合直文·佐々木信綱·正岡子規ら住人の新詩会が組織され、新体詩の研究を試みている。翌年の鉄幹は「対面千里」で語ったように、西行の才気と信仰と背を向け、「涙で熱」を抑えた業平
の詠みぶりを典範とすることとなった。
同誌第二号から歌作を披露し始めた鳳晶子は、やがて鉄幹の妻となるが、後に、
私が歌を作る気に成りましたのは、三十年頃でしたが、『読売』に、宅の歌で、
春あさき道灌山の茶屋に餅くふ書生袴つけたり
とあるのを見て、私は其時何とも知れぬ新しい気に打たれました。
と述懐する。『明星』では歌を「短詩」と稱したが、晶子には、短歌形式の中に、少なくも一編の詩に相当する内容を収納し、詩と等質で含意に富む作品が多く、そのことで難解な歌にもなり、一種の迫力を持つものにもなっている。
何となく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな
では憧憬の調和的な表現を見ることができ、
紫にもみうらにほふみだればこをかくしわづらふ宵の春の神
は字余りを重ねながら想像に移行し、読者の情感を誘発するものになっている。これらの作を収めた歌集『みだれ髪』には、巻頭に
夜の帳にささめき尽し星の今を下界の人の髪のほつれよ等、後に人口に膾炙する歌を並べている。
2.2情意の詩的表現の定着と成熟
島崎藤村に詩作は、明治二十五年からおよそ十年にわたり、末の数年間は散文の習作期と重なっている。今日「藤村詩」と呼ぶ独自の作品の出現は、二十九年九月に彼が仙台の地を踏んだころからで、『草枕』中の二連に
心の宿りの宮城野よ
乱れて熱き吾身には
日影も薄く草枯れて
荒れたる野こそうれしけれ
ひとりさみしき吾耳は
吹く北風を琴を聴き
悲しみ深き吾目には
色彩なき石も花と見き
当時の詩篇には、劇的構成の残滓を遺するのや叙事的志向を持つものや叙景詩と見うるものさえ含まれるが、全体として詩人自ら暗鬱と見た境涯に根ざし、その情熱の奔溢を捉えるものが核心をなしている。これらの抒情詩を直ちにロマン主義とは同定し難いにせよ、内部の心性には、滅亡の淵から身を起して回生を求める藤村固有の定式に適うものが多く、自我の内面の主情的な表白、しかも構成·修辞面で均整を逸したものという共通性がある。
当時他に注目すべきものに、独歩·花袋·湖処子らの合著『抒情詩』がある。集中の松岡国男の作は『文学界』に載ったものであるが、整斉した文辞によって清澄な詩情を示し、また独歩は自由詩『山林に自由存す』で、理想ないし夢想の表現を試み、特色ある詩境を窺わせ、浪漫主義詩歌の黄金期を迎えた。
3『海潮音』と『月下の一群』の爛熟
3.1象徴主義的な詩作へ―『海潮音』
『明星』の寄稿者でそれぞれ独立の詩的世界を創世したのは、薄田泣菫·蒲原有明である。泣菫は『暮笛集』で八六調を試み、『ゆく春』、『二十五絃』等では古雅な用語を多用し、微妙な音調の裡に物事の陰影に富む描法を獲得していた。『草わかば』『独絃哀歌』のころから象徴詩風の端緒を示していた蒲原有明は『春鳥集』に至って象徴詩の自覚的確立を示し、『有明集』において感覚的から瞑想的詩風を完成した。
象徴主義に関しては上田敏は、「幽趣微韻」、「仏蘭西詩壇の新声」を書き、ヴェルアランの訳「仏蘭西の哀観詩人」と同年末の『文芸論集』にはボードレール·マラルメの原詩を示した。35年1月のコペー『礼拝』に始まった訳業は『海潮音』となって、鴎外への献辞と特に高踏派·象徴派を説明する序·注とを付して上木された。
ヴェルレーヌ、ボードレール、マラルメ、ブラウニング…、清新なフランス近代詩を紹介し、日本の詩檀に根本的革命をもたらした上田敏は、藤村、晩翠ら当時の新体詩にあきたらず、「一世の文芸を指導せん」との抱負に発して、至難な西欧近代詩の翻訳にたずさわり、かずかずの名訳を遺した『海潮音』は、多彩な詩人の作品が収録され、その高雅な詩語をもち、独立した創作とも見られる訳詩集である。
翻訳者は上田敏であるが、格調高い文体は、もう上田敏のオリジナル詩集といってもよさそうな感じがあり、昔人の文章ということで、現代人には難解な漢字熟語なども入っているが、意味の解釈できないということはないし、豊富な語彙を自由自在に駆使することで独特さがでている。確かに、文学史に残って然るべき、珠玉の翻訳詩集であり、上田敏氏はこの本で偉業を成し遂げたと思う。
海のあなたの 遥けき国へ
いつも夢路の波枕、
波の枕のなくなくぞ、
こがれ憧れわたるかな、 海のあなたの遥けき国へ。
―テオドル·オオバネル
翻訳作品集ということであるが、この中に収められている詩は全て、新しい作品になっているような気がする。日本人の耳に馴染みやすい5·7·5のリズムを使った翻訳は、思わず口に出して読みたくなるようなものである。単なる「訳」ではない、言葉一つ一つへのこだわりが、どの詩も綺麗に見せてくれるものだとおもわれる。
3.2『月下の一群』―大正期の代表的訳詩集
1925年第一書房刊行され、堀口大学の訳詩集『月下の一群』は、既刊の訳詩集『昨日の花』、『失はれた宝玉』、『サマン選集』から選ばれた作品とその後の新訳をもって構成され、ボードレール、ベルレーヌらの象徴派詩人から、ジャコブ、コクトー、ラディゲ、スーポーら第1次世界大戦以後の現代詩人に至る66人の多様な作品、象徴派から20世紀初頭の現代派に至る66人の詩人の作品340編を収めた。とくにアポリネール、ジャコブ、サルモンなど、当時のもっとも前衛的な新精神の詩人たちを紹介した意味は大きい。この訳詩集は「フランス近代詩の好箇の見本帖」としての特色に加え、原詩の趣をよく伝える訳者の達意流麗な訳筆によって広く称賛を博し、次代の詩人たちに大きな影響を与えた。バレリー『失はれた美酒』、アポリネール『ミラボー橋』、コクトー『シャボン玉』『耳』、グールモン『雪』『落葉』、ジャム『私は驢馬を好きだ』など、今も人口に膾炙する名訳が多く含まれている。
文語と口語の硬軟新古のあらゆる語を駆使した訳詩は、フランス近代詩のエッセンスを伝える「好個の見本帖」となり、『詩と詩論』から戦後詩へと続く昭和詩の源泉となった。
4 まとめ
総じて言えば、世界では、日本詩歌よりそんなに多くの異國色彩をつける外国詩歌はなかろう。しかし、単のまねではなく、西方詩歌を模倣して創造してきた日本近代詩は、異国色彩にあふれていることこそ、日本近代詩歌の独特な詩韻だと思われる。
参考文献
[1]『日本文學史概說』平岡敏夫、東鄉克美 株式會社文弘社 1979
[2]『近代の诗.短歌.俳句 』 和泉あき 学術図书出版社 2003
[3]『日本近代詩入門』吉田精一 要書房 1953
[4]『日本近代文学史』 谭晶华 上海外语教育出版社 2003
作者简介
韦一,日语语言文学硕士,成都工业学院外语系讲师,研究方向:日语语言文化,
(作者单位:成都工业学院外语系)
キーワード:訳詩集 日本 近代
日本近代詩の歴史は、和歌、俳諧、漢詩など旧来の伝統的詩形に替わるものとして、西洋ポエトリーの移入によって始まったと、一応いうことができる。近代詩とは、普通、日本明治維新以後から生んだ新体詩を指す。開放政策の推進に従い、欧米の文化は春風のように次から次へとこの島国に吹きこんでいた。詩歌界においても、文人達はもう固有の古典詩歌に満足せず、彼らの解放された思想の感情を表現しようと、切実に一種の新しい詩歌形式が必要となった。
1 初期の訳詩集とその影響
1.1『新体詩抄』とその意義
明治十五年八月、東京大学の外山正一、矢田部良吉、井上哲次郎共編『新体詩抄初編』が刊行された。訳詩十四編、創作詩五編からなるが、井上が書中で「夫レ明治ノ歌ハ、明治ノ歌ナルベシ、古歌ナルベカラズ、日本ノ詩ハ日本ノ詩ナルベシ、漢詩ナルベカラズ、是レ新体ノ詩ノ作ル所以ナリ」と言うように、これまでの和歌でも漢詩でもないところで、明治の新体の詩が新しく求められようとしていたのである。
『ブルウムフュールド氏兵士帰郷の詩』(正一)、『カムプベル氏英国海軍の詩』(良吉)、『テニソン氏軽騎隊進撃の詩』(正一)と冒頭まず陸海軍にかかわる詩が三篇並ぶのは、この年一月四日発布された「陸海軍軍人に賜はりたる勅論」と無関係ではあるまい。『新体詩抄』においても最も精力的だった外山はローマ字会、演劇絵画をはじめ、社会·教育·政治と幅広い啓蒙活動を示し、矢田部もまたその中で挫折して行くのであるが、『新体詩抄』はそのような啓蒙思想の一環であり、詩と思想·政治が緊密に結びついていた。
外山の『社會学の原理に題す』が示しているように、ダーウィンの進化論を社会に適用したスペンサーの社会進化論が優勝劣敗の理論として天賦人権論への批判としてはたらしており、詩それ自体の完成度よりも詩の直接的有効性が目指されていたのである。
年季も入らず学問も するに及ばぬ訳なれば新聞記者や役人と 成るは最と最と易けれどか様な者が多ければ 忽ち国に社会党尚ほ恐ろしき虚無党の 起るは鏡見る如し揉みに揉めたる其上句 虻蜂取らずの丸潰れ秩序も建たず自由なく 泥海にこそなるべけれ再び浪風静まりて 太平海と成る迄は百年足らず掛らんは 革命以後の仏蘭西の有様見ても知れたこと そこに心がつきたらば妄に手出しする勿れ 妄にしやべること勿れ
これが詩を借りた説教であることは疑いないが、外山にとっては全国的に激化する民権運動を前に真実それが国の危機と映っていたのであり、『於面影』以降の近代詩の喪失したものがここにあることが確かである。『新体詩抄』には『グレー氏墳上感懐の詩』のごとき、芸術性にとんだ訳詩もあるが、「我は官軍我敵は 天地容れざる朝敵ぞ」で始まる『抜刀隊』が軍歌の先駆として生きのびていくのである。
1.2『於面影』の実験
森鴎外の啓蒙活動は、まず詩歌のジャンルから着手された。その結実が、明治23年8月『国民之友』夏期付録として発表された訳詩『於面影』である。鴎外のほか妹の小金井喜美子、落合直文、市村さんじろう、井上通泰の四人が参加してS.S.S.「新声社」を称し、ドイツ詩·英詩·明詩、それに平家物語まで加えて一七篇(のち、二篇を追加)を素材に取り上げ、形式内容の両面から新時代の詩歌を意欲的に追及している。
思郷
離郷遠寓椰樹国 独有潮声似窮北
思郷念或熾 即走海之浜
聴此熟耳響 鬱懐得少伸
オフエリヤの歌
いづれを君が恋人と
わきて知るべきすべやある
貝の冠とつく杖と
はける靴とぞしるしなる
かれは死にけり我ひめよ
渠はよみぢへ立ちにけり
かしらの方の苔を見よ
あしの方には石たてり
柩をおほふきぬの色は
高ねの雪と見まがひぬ
涙やどせる花の環は
ぬれたるままに葬りぬ
引例に見られる漢詩、新体詩の多様なスタイルのほかに短歌のかたちもあり、またそれぞれの詩篇ごとに、訳出のねらいは「意」「句」「韻」「調」のうちのどれであるかが意識されていた。「意」は「従原作之意義者」、「句」は「従原作之意義及字句者」、「韻」は「従原作之意義及韻法者」、「調」は「従原作之意義字句及平仄韻法者」である。
たとえば『オフエリアの歌』は、『ハムレット』の一節の「韻」訳で、原典の正確な訳出とともに押韻の配慮「脚韻及び第二連頭韻」が注目され、また『マンフレツト一節』はバイロンの「句」訳で、近代人の憂悶に閉ざされた魂の内面がはじめて日本語によって描き出されたものとして評価される。そのほかの詩篇も併せて、様々な実験を背後から支えるみずみずしいロマンチシズムの息吹きは、『新体詩抄』の次元を遥かに超える近代詩の新生面を開いたものとして、若い読者の胸を大きく揺さぶらずにはいなかったのである。その後、『楚囚之歌』『蓬莱曲』と『新体梅花詩集』、『於面影』と同じ年の四月に、浪漫主義文学史のうえで見落とせない作品が表されていた。 2浪漫主義詩歌の開花
2.1与謝野鉄幹と新詩社『明星』
日清戦争の直前、落合直文の「あさか社」が設立され、ここに結集した新派歌人によって短歌の革新が推進された。その活動の中心人物が与謝野鉄幹である。幼少のころから万葉集に親しんでいた鉄幹は、勅撰集の類を吟味した末、二十年代の半ばには一時、新古今調に傾倒していた。しかし二十七年の歌論『亡国の音』では「女性的和歌」ならびに「恋歌」の排撃に転じ、
韓にして如何でか死なむ。面白き、/十年の後の、いくさをも見ず。
などを掲げ「をのこの歌」の具現につとめるに至った。その詩歌集『東西南北』に次ぐ『天地玄黄』には
いにしてへに、神と恋せし、わたつみの、/涙やあかき、珠となりけむ。
と珊瑚を歌った新奇な作も入集された。同三十年一月、鉄幹の主唱により落合直文·佐々木信綱·正岡子規ら住人の新詩会が組織され、新体詩の研究を試みている。翌年の鉄幹は「対面千里」で語ったように、西行の才気と信仰と背を向け、「涙で熱」を抑えた業平
の詠みぶりを典範とすることとなった。
同誌第二号から歌作を披露し始めた鳳晶子は、やがて鉄幹の妻となるが、後に、
私が歌を作る気に成りましたのは、三十年頃でしたが、『読売』に、宅の歌で、
春あさき道灌山の茶屋に餅くふ書生袴つけたり
とあるのを見て、私は其時何とも知れぬ新しい気に打たれました。
と述懐する。『明星』では歌を「短詩」と稱したが、晶子には、短歌形式の中に、少なくも一編の詩に相当する内容を収納し、詩と等質で含意に富む作品が多く、そのことで難解な歌にもなり、一種の迫力を持つものにもなっている。
何となく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな
では憧憬の調和的な表現を見ることができ、
紫にもみうらにほふみだればこをかくしわづらふ宵の春の神
は字余りを重ねながら想像に移行し、読者の情感を誘発するものになっている。これらの作を収めた歌集『みだれ髪』には、巻頭に
夜の帳にささめき尽し星の今を下界の人の髪のほつれよ等、後に人口に膾炙する歌を並べている。
2.2情意の詩的表現の定着と成熟
島崎藤村に詩作は、明治二十五年からおよそ十年にわたり、末の数年間は散文の習作期と重なっている。今日「藤村詩」と呼ぶ独自の作品の出現は、二十九年九月に彼が仙台の地を踏んだころからで、『草枕』中の二連に
心の宿りの宮城野よ
乱れて熱き吾身には
日影も薄く草枯れて
荒れたる野こそうれしけれ
ひとりさみしき吾耳は
吹く北風を琴を聴き
悲しみ深き吾目には
色彩なき石も花と見き
当時の詩篇には、劇的構成の残滓を遺するのや叙事的志向を持つものや叙景詩と見うるものさえ含まれるが、全体として詩人自ら暗鬱と見た境涯に根ざし、その情熱の奔溢を捉えるものが核心をなしている。これらの抒情詩を直ちにロマン主義とは同定し難いにせよ、内部の心性には、滅亡の淵から身を起して回生を求める藤村固有の定式に適うものが多く、自我の内面の主情的な表白、しかも構成·修辞面で均整を逸したものという共通性がある。
当時他に注目すべきものに、独歩·花袋·湖処子らの合著『抒情詩』がある。集中の松岡国男の作は『文学界』に載ったものであるが、整斉した文辞によって清澄な詩情を示し、また独歩は自由詩『山林に自由存す』で、理想ないし夢想の表現を試み、特色ある詩境を窺わせ、浪漫主義詩歌の黄金期を迎えた。
3『海潮音』と『月下の一群』の爛熟
3.1象徴主義的な詩作へ―『海潮音』
『明星』の寄稿者でそれぞれ独立の詩的世界を創世したのは、薄田泣菫·蒲原有明である。泣菫は『暮笛集』で八六調を試み、『ゆく春』、『二十五絃』等では古雅な用語を多用し、微妙な音調の裡に物事の陰影に富む描法を獲得していた。『草わかば』『独絃哀歌』のころから象徴詩風の端緒を示していた蒲原有明は『春鳥集』に至って象徴詩の自覚的確立を示し、『有明集』において感覚的から瞑想的詩風を完成した。
象徴主義に関しては上田敏は、「幽趣微韻」、「仏蘭西詩壇の新声」を書き、ヴェルアランの訳「仏蘭西の哀観詩人」と同年末の『文芸論集』にはボードレール·マラルメの原詩を示した。35年1月のコペー『礼拝』に始まった訳業は『海潮音』となって、鴎外への献辞と特に高踏派·象徴派を説明する序·注とを付して上木された。
ヴェルレーヌ、ボードレール、マラルメ、ブラウニング…、清新なフランス近代詩を紹介し、日本の詩檀に根本的革命をもたらした上田敏は、藤村、晩翠ら当時の新体詩にあきたらず、「一世の文芸を指導せん」との抱負に発して、至難な西欧近代詩の翻訳にたずさわり、かずかずの名訳を遺した『海潮音』は、多彩な詩人の作品が収録され、その高雅な詩語をもち、独立した創作とも見られる訳詩集である。
翻訳者は上田敏であるが、格調高い文体は、もう上田敏のオリジナル詩集といってもよさそうな感じがあり、昔人の文章ということで、現代人には難解な漢字熟語なども入っているが、意味の解釈できないということはないし、豊富な語彙を自由自在に駆使することで独特さがでている。確かに、文学史に残って然るべき、珠玉の翻訳詩集であり、上田敏氏はこの本で偉業を成し遂げたと思う。
海のあなたの 遥けき国へ
いつも夢路の波枕、
波の枕のなくなくぞ、
こがれ憧れわたるかな、 海のあなたの遥けき国へ。
―テオドル·オオバネル
翻訳作品集ということであるが、この中に収められている詩は全て、新しい作品になっているような気がする。日本人の耳に馴染みやすい5·7·5のリズムを使った翻訳は、思わず口に出して読みたくなるようなものである。単なる「訳」ではない、言葉一つ一つへのこだわりが、どの詩も綺麗に見せてくれるものだとおもわれる。
3.2『月下の一群』―大正期の代表的訳詩集
1925年第一書房刊行され、堀口大学の訳詩集『月下の一群』は、既刊の訳詩集『昨日の花』、『失はれた宝玉』、『サマン選集』から選ばれた作品とその後の新訳をもって構成され、ボードレール、ベルレーヌらの象徴派詩人から、ジャコブ、コクトー、ラディゲ、スーポーら第1次世界大戦以後の現代詩人に至る66人の多様な作品、象徴派から20世紀初頭の現代派に至る66人の詩人の作品340編を収めた。とくにアポリネール、ジャコブ、サルモンなど、当時のもっとも前衛的な新精神の詩人たちを紹介した意味は大きい。この訳詩集は「フランス近代詩の好箇の見本帖」としての特色に加え、原詩の趣をよく伝える訳者の達意流麗な訳筆によって広く称賛を博し、次代の詩人たちに大きな影響を与えた。バレリー『失はれた美酒』、アポリネール『ミラボー橋』、コクトー『シャボン玉』『耳』、グールモン『雪』『落葉』、ジャム『私は驢馬を好きだ』など、今も人口に膾炙する名訳が多く含まれている。
文語と口語の硬軟新古のあらゆる語を駆使した訳詩は、フランス近代詩のエッセンスを伝える「好個の見本帖」となり、『詩と詩論』から戦後詩へと続く昭和詩の源泉となった。
4 まとめ
総じて言えば、世界では、日本詩歌よりそんなに多くの異國色彩をつける外国詩歌はなかろう。しかし、単のまねではなく、西方詩歌を模倣して創造してきた日本近代詩は、異国色彩にあふれていることこそ、日本近代詩歌の独特な詩韻だと思われる。
参考文献
[1]『日本文學史概說』平岡敏夫、東鄉克美 株式會社文弘社 1979
[2]『近代の诗.短歌.俳句 』 和泉あき 学術図书出版社 2003
[3]『日本近代詩入門』吉田精一 要書房 1953
[4]『日本近代文学史』 谭晶华 上海外语教育出版社 2003
作者简介
韦一,日语语言文学硕士,成都工业学院外语系讲师,研究方向:日语语言文化,
(作者单位:成都工业学院外语系)