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中图分类号:H36 文献标识码:A 文章编号:1673-1875(2009)15-066-01
川端康成の長編小説「山の音」は、戦後の日本文学の傑作である。この作品は主人公尾形信吾一家を舞台にして描いた日常性が色濃く出ている、愛憎のすみずみ物語である。家族の構成はややこみいっているが、結婚して三十数年になった妻、息子の修一と、その嫁の菊子、それから二人の小さい子供を連れてもどってきた娘である。
八人兄弟の末っ子である菊子は、肉親からも少しも望まれず、堕胎を試みたが失敗してしまった状況で生まれたのである。しかし、思いのほかに、菊子は末っ子らしく育ったようで、美しい少女になった。少し弱々しいが、みなに気安く愛されている。
菊子がこの世に誕生したことに少し悲しい色があるといえば、尾形家にお嫁にきたことは、最も不幸なことであった。まず、夫修一が菊子をお嫁として迎えたが、まだ二年にもならないうちに外で別の女の人をこしらえている。戦争に出たことがある彼は敗残兵でもあり、心の負傷兵でもある。菊子は戦争で時々不意に怖くなったりした自分の夫にいつまでもやさしくしている。ところが、異常な夫の目には、子供を見るように菊子を殴ったり、踏んだり、蹴ったりして、虐待する。
夫の家で美しくやさしい菊子はあるべき対応を得られない。反って、彼女を一層不幸な深淵に陥いらせてしまった。夫の父母の婚姻は形骸だけ残っている。義父は妻の美しい姉に少年のころから憧れていたことがある。その姉が死んだ後、妻と結婚することにしたのである。美しい嫁の菊子はまるで化身のようなもので、義父に死んだ姉を思い出させる。化身だと認められたことは、菊子の悲しみであると思う。義父は菊子に特殊な愛情を持ちながら同情したが、素直で純潔な菊子は、警戒心もちっとも持っていない。菊子は精神麻痺した夫のくわえる異常なしうちに、義父に慕って、義父の愛を唯一のささえとして生活に耐えているのである。義父以外に、義母と夫の姉、特に義母は菊子に気を配る、ある程度の慰めることもしない。菊子はこの家で頼りになる人もいないようだ。だが、菊子はいつでもよく夜遅くに帰ってきたり、帰っても泥酔で倒れたりした夫に何も言わずに心を込めて面倒を見ることは言うまでもなく、義父義母の世話を、夫の姉の二人の幼児までも快くやる。それにしてもよく姉や夫修一に何か毒を吐くように言われたこともある。こんな暗い鬱陶しい家庭の中に、菊子は義父に開かれた窓から見える唯一の光のようだ。菊子も義父にひとりでによりかかろうとしているのは、自然なことである。
菊子の美しさと悲しさは夫の麻痺と残忍の下で、反って目覚めてきた心身ともの成熟にもあると思う。夫に女が出来たために、妊娠した子を自分の意志で中絶したことで抗議した。それに、堕胎した後で、常よりも深く夫にあまえ、常よりも夫にやさしくした。夫婦関係は深くすすんだことなどから表面的に弱く見える菊子は実に強い一面が分かる。
もう一方で、菊子が知らず知らずのうちに悲しい深淵に陥りこんでいる。その原因は義父の身にある。自分の呪われた誕生をも少しも気にしてなく、平気で義父に話しかける菊子は、義父の心理まで邪推はしないからである。反対に、義父は化身だと思わせる菊子の一挙手一投足に取りすがれている。彼は菊子にさまざまな幻想を抱いているにも関わらず、道徳倫理の壁を乗越えることができない。義父は菊子にいったい何のために別居を勧めたのかは、ともかく別にして、単なる「もし別れましたら、お父様にどんなお世話でもさせていただけると思いますの。」という話から菊子の純潔さが改めて分かるだろう。しかし、この純潔さの深いところに悲しみがあると思う。それは、義父とのふたりのふれあいが醜い関係に落ちていく可能性がないわけではないのである。
この作品の最後にある、菊子「お姉さまにもお出来になりますわ。女はみんな水商売で出来ますもの。」「お姉さまがなされば、わたしだってお手伝いさせていただくわ。」の言葉は夫修一の自信を打ち砕いた。水商売でも何でも始めて、自立して女性として夫との関係を作り替えていきたい、子供ではなく成熟した女性として自分の夫と向き合い、対等の大人同士として緊密な関係を結んでいきたい、という自分の願望を菊子は持ちはじめたように見える。菊子の美しさと悲しさが本質的に変ったと言える。
「山の音」には、菊子の美しさと悲しさが、絡み合って存在している。美しさの中に悲しさがあり、悲しさの中に美しさがある。時々、はっきり分けることができない。美しさも悲しさも菊子がますます成熟するとともに、変ってきた。菊子の純潔さ善良さが彼女の美しいところでもあり、悲しいところでもあると思う。
参考文献:
[1]日本文学全集20「川端康成」新潮社1967年9月15日
[2]「川端康成」福田清人 板 垣信 清水書院
川端康成の長編小説「山の音」は、戦後の日本文学の傑作である。この作品は主人公尾形信吾一家を舞台にして描いた日常性が色濃く出ている、愛憎のすみずみ物語である。家族の構成はややこみいっているが、結婚して三十数年になった妻、息子の修一と、その嫁の菊子、それから二人の小さい子供を連れてもどってきた娘である。
八人兄弟の末っ子である菊子は、肉親からも少しも望まれず、堕胎を試みたが失敗してしまった状況で生まれたのである。しかし、思いのほかに、菊子は末っ子らしく育ったようで、美しい少女になった。少し弱々しいが、みなに気安く愛されている。
菊子がこの世に誕生したことに少し悲しい色があるといえば、尾形家にお嫁にきたことは、最も不幸なことであった。まず、夫修一が菊子をお嫁として迎えたが、まだ二年にもならないうちに外で別の女の人をこしらえている。戦争に出たことがある彼は敗残兵でもあり、心の負傷兵でもある。菊子は戦争で時々不意に怖くなったりした自分の夫にいつまでもやさしくしている。ところが、異常な夫の目には、子供を見るように菊子を殴ったり、踏んだり、蹴ったりして、虐待する。
夫の家で美しくやさしい菊子はあるべき対応を得られない。反って、彼女を一層不幸な深淵に陥いらせてしまった。夫の父母の婚姻は形骸だけ残っている。義父は妻の美しい姉に少年のころから憧れていたことがある。その姉が死んだ後、妻と結婚することにしたのである。美しい嫁の菊子はまるで化身のようなもので、義父に死んだ姉を思い出させる。化身だと認められたことは、菊子の悲しみであると思う。義父は菊子に特殊な愛情を持ちながら同情したが、素直で純潔な菊子は、警戒心もちっとも持っていない。菊子は精神麻痺した夫のくわえる異常なしうちに、義父に慕って、義父の愛を唯一のささえとして生活に耐えているのである。義父以外に、義母と夫の姉、特に義母は菊子に気を配る、ある程度の慰めることもしない。菊子はこの家で頼りになる人もいないようだ。だが、菊子はいつでもよく夜遅くに帰ってきたり、帰っても泥酔で倒れたりした夫に何も言わずに心を込めて面倒を見ることは言うまでもなく、義父義母の世話を、夫の姉の二人の幼児までも快くやる。それにしてもよく姉や夫修一に何か毒を吐くように言われたこともある。こんな暗い鬱陶しい家庭の中に、菊子は義父に開かれた窓から見える唯一の光のようだ。菊子も義父にひとりでによりかかろうとしているのは、自然なことである。
菊子の美しさと悲しさは夫の麻痺と残忍の下で、反って目覚めてきた心身ともの成熟にもあると思う。夫に女が出来たために、妊娠した子を自分の意志で中絶したことで抗議した。それに、堕胎した後で、常よりも深く夫にあまえ、常よりも夫にやさしくした。夫婦関係は深くすすんだことなどから表面的に弱く見える菊子は実に強い一面が分かる。
もう一方で、菊子が知らず知らずのうちに悲しい深淵に陥りこんでいる。その原因は義父の身にある。自分の呪われた誕生をも少しも気にしてなく、平気で義父に話しかける菊子は、義父の心理まで邪推はしないからである。反対に、義父は化身だと思わせる菊子の一挙手一投足に取りすがれている。彼は菊子にさまざまな幻想を抱いているにも関わらず、道徳倫理の壁を乗越えることができない。義父は菊子にいったい何のために別居を勧めたのかは、ともかく別にして、単なる「もし別れましたら、お父様にどんなお世話でもさせていただけると思いますの。」という話から菊子の純潔さが改めて分かるだろう。しかし、この純潔さの深いところに悲しみがあると思う。それは、義父とのふたりのふれあいが醜い関係に落ちていく可能性がないわけではないのである。
この作品の最後にある、菊子「お姉さまにもお出来になりますわ。女はみんな水商売で出来ますもの。」「お姉さまがなされば、わたしだってお手伝いさせていただくわ。」の言葉は夫修一の自信を打ち砕いた。水商売でも何でも始めて、自立して女性として夫との関係を作り替えていきたい、子供ではなく成熟した女性として自分の夫と向き合い、対等の大人同士として緊密な関係を結んでいきたい、という自分の願望を菊子は持ちはじめたように見える。菊子の美しさと悲しさが本質的に変ったと言える。
「山の音」には、菊子の美しさと悲しさが、絡み合って存在している。美しさの中に悲しさがあり、悲しさの中に美しさがある。時々、はっきり分けることができない。美しさも悲しさも菊子がますます成熟するとともに、変ってきた。菊子の純潔さ善良さが彼女の美しいところでもあり、悲しいところでもあると思う。
参考文献:
[1]日本文学全集20「川端康成」新潮社1967年9月15日
[2]「川端康成」福田清人 板 垣信 清水書院